写真と言葉

私が「お便りプロジェクト」を始めた理由

この春から「お便りプロジェクト」というものをスタートしている。私が自分の写真で作ったポストカードを使って手書きのお便りを出すというもので、約10名の方にお申し込みいただき、4月に第1回のお便りをお届けした。

なぜ「お便り」なのか。根底にあるのは、「写真を届けたい」という想い。展示をする、作品を販売する、写真集やzineを販売するなど、今までやってきたことの根底にもその想いはあったし、これからも続けていくつもりだけれど、ここ1〜2年、もっと違う方法もあるのではないかと考え続けていた。そもそも、人に写真を届けるって何だろうか、と。そこで思いついたのが「手紙を届けるように写真を届ける」ということだった。

私自身、子どもの頃はよく友達と手紙のやり取りをしていた。自分宛ての手紙を見つけた時の高揚感、開封する時のはやる気持ち。当時、ポストにはそういうワクワク感があった。今では、ポストに手紙が届いているかもしれない、などと想像することすら、ほとんどなくなってしまっている。

今でも、帰宅すると習慣的にポストを確認するけれど、入っているのはダイレクトメールやチラシ、請求書や自治体の広報誌ばかり。ポストを開けることに何の期待もトキメキも感じず、ただただ事務的に処理するだけのつまらない行為となってしまっている。何とも味気ない。

だったら、写真を郵送で送るのはどうだろうか。
例えば写真のポストカードなら、気軽に受け取ってもらえるかもしれない。
せっかくポストカードにするなら、お手紙も書きたい。
そうだ、手紙のように写真を届けてみよう。

この単純な思い付きが、わたしが「お便りプロジェクト」を始めた理由。

それに、私は一人暮らしなので余計にそう思うのかもしれないが、家に帰ってきた時に、ほんの少しでもワクワクした気分になれるようなことなら、それだけでやる意味があるんじゃないか、とも思っている。

また、意外に大事だと思っているのが、手紙が“受動的に受け取れるもの”であるということ。

思えば今の時代は、多くの物事が、自分が主体的に動くことで何かが得られる仕組みになっている。SNS、WEB、ブログなども含めて、読みたい人・情報を求めている側が自らアクションする必要がある。でも、正直に言えば私は、自分自身が疲労困憊している時などは、自ら何かをする気力も湧かないことも多い。

その点、手紙を受け取るというのはとても受動的な行為なのが良い。受け取り手の状況やコンディションと関係なく届けられる。それがかえって受け入れやすかったり、そういうものに救われたりすることもあるのではないだろうか。

写真を受動的に受け取ってもらう。それも「お便りプロジェクト」でやってみたいと思っていることの一つだ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 <<写真教室受講生募集中!>>
 東京・南青山にあるギャラリー NADAR(ナダール)にて
 「女性による女性のための写真教室」の講師をしています。
 只今、7月期の受講生募集中です!

 ◉ ナダール WEBサイト:https://g-nadar.net
 ◉ 教室について:https://g-nadar.net/school/school_nps/
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

衝動買い

久しぶりに、衝動買いらしい衝動買いをしてしまった。

買ったのは万年筆とインク。万年筆と言っても、決して高価なものではなく、ごくカジュアルなもの。ふらりと入ったステーショナリーショップで見つけて気に入り、そのまま購入してしまった。

万年筆を持つのは初めてではない。私の初めての万年筆は、高校か大学の入学祝いにと母に買ってもらったもの。私が欲しいとリクエストしたのだけれど、あまり使いこなせないままペン立てに入れっぱなしになっていた記憶がある。その後も何度か万年筆を使ってみようと思うことはあったものの、結局は、いつの間にか便利なボールペンばかり使うようになってしまう。その繰り返し。

何度も挫折しているのに懲りない奴だなぁと自分でも呆れるけれど、これはきっと憧れなのだと思う。文字を書くことへの。つまり、今、私は書きたい気持ちが高まっている。とにかく何かを書きたくて仕方がない。ところが、何を書くかが思いつかない。万年筆を片手にノートを開いては、しばし思案して閉じる。開いては、閉じる。しかし書きたいのだ。書けないのは欲求が満たされない。欲求不満がたまる。仕方なく、その辺にある紙の切れ端にどうでもいい落書きをしてお茶を濁す。まったく私ってやつは…。

でも、まぁ良い。欲求なんて、大抵そんなものだ。万年筆で文字を書くのは好きなのだから、とりあえず日常のメモなどに普通に万年筆を使えば良いのだ。そう、それに、お便りプロジェクトのお手紙にも万年筆を使いたいと思っていたし。

さて、長々と衝動買いのいい訳をしてみたが、これは全くもって自分自身に言い聞かせているだけな気がする。無駄な買い物ではなかったのだと。

いや、無駄でもいい。万年筆にインクを入れる時の幸せがあるだけで、私は充分満足なのだから。

とても小さな旅のこと

友人と鎌倉に行った。
古民家的なカフェでまったり過ごすのが1番の目的だった。

訪れたのは、北鎌倉にある「喫茶 ミンカ」。
小さな路地の突き当たり、草木の茂る小さな庭の奥にひっそりと佇む古民家。じっと静かに訪問者を待っているような気配に満ちていた。

カラカラとガラスの引き戸を開けて中に入る。古い丸い机を選んで席についた。私が注文したのはアイスコーヒーとピロシキ。と、プリン。

友人が注文したのは、アイスミルクコーヒーとピロシキ。そして、プリン。

頼み終わってから「ピロシキってなんだっけ」と、友人が独り言のようにつぶやく。ロシアとかの揚げパン的なやつだよね、と思いつつ、いまいち自信のない私はふんわり聞き流してしまった。

まぁ、もう頼んじゃったし、きっと美味しいやつだから大丈夫。

運ばれてきたピロシキは、思った通り揚げパン的なやつ。よかった、合ってた。もっちりサクッとした食感が心地よく、包まれているミンチ肉の具材もほっこりした優しい味わいだ。

デザートの自家製プリンは、滑らか過ぎない素朴な感じ。幼い頃に母が作ってくれたプリンを思い出す。まさに、懐かしい美味しさだった。そういえば、子供の私にとってプリンの醍醐味はクリーミーなカスタードだったけれど、今は、甘くてほろ苦いカラメルが堪らない。カラメルあってこその、プリン。断然、カラメル派。

美味しいね、と言い合いながら食べた。

食べながら、最近どう?と尋ね合った。

思うようにいかないことがあるとか、迷っていることがあるとか、美味しいものを食べてゆったり笑いながら、そういう話をする。えーっ、そうなの!?と驚く意外な本音に触れたり、わかるわかる、私も同じ!と、思わず身を乗り出してしまう共感があったり。

女の話はこれだから…と言われるかもしれないが、別に結論はないし、解決もしない。

でも、決して無駄なんかじゃない。

「最近どう?」と聞くために、
「最近どう?」と聞いてもらうために、
二人して鎌倉まで出かけて来た。

日常を離れる、小さな旅。

明日からも頑張ろうという充足した気持ちで別れた。
癒しの旅だった。

健全に生きる

最近の私のテーマは、「健全に生きる」だ。

疲れたり行き詰まったりすると、「肩の力を抜く」とか「頑張らない」とか「無理しない」とか、自分を支えるために色んなことを考えるけど、大切なのは健全であるかどうか。

仕事でも何でも、頑張らなきゃいけない時はあるし、無理のしどきもある。疲れても、ヘロヘロでも、健全な気持ちで生きていられているなら、大丈夫。

ちなみに、私にとっての「健全」とは、人として真っ当であること。人にも、自分にも、社会にも、普通に接点をもてること。優しさをもてること。想像力をもてること。許せること。

そんなことを考える度に、私は健全に育ててもらったんだな、と有り難く思うようになった。
歳かな。
歳だな。

流れる/積み重ねる/塚をつくる

Kumiko Sanae photography

 

平成から令和に改元された節目の日である今日、長らく更新の滞っていたこのブログを再開してみようと思う。

ブログから離れてしまっていた理由はいくつかあるけれど、InstagramやFacebookなどのSNSの存在も大きな理由の一つ。

ここ数年、毎日とはいかないけれど週に何度かは、写真と短い言葉をInstagramに投稿して、Facebookへも同時にシェアすることを続けていた。その手軽さと気軽さが、投稿する方にとっても見る方にとっても負担が少なく、よくできた仕組みだと思う。

けれど、SNSの不便な点もずっと気になっている。手軽だけれど、自分の投稿も膨大な量の投稿に紛れて流れていってしまう。コンテンツとしての蓄積のない感じが、どこか虚しさに似た感覚をもたらす。「今」をシェアする即時性には長けているけれど、後から振り返る時に記事を探しにくく、読みたい記事にたどり着けないこともある。

それに、何と言ってもSNSサービスは、今後どれくらい長く同じサービスが支持され続いていくかが不透明なことが気に掛かる。サービス内容も時代や社会の変化に合わせてどんどん変化するし、ずっと今と同じ使い方をできるかどうかはわからない。

そう考えると、個人のWEBサイトやブログにもやはり意義があるような気がして、ここに戻ってきてみた。

もちろん、SNSでの発信も続けるつもり。それぞれの良いところをうまく活かしたい。

写真を撮る時、私にはやはり「残したい」という思いがある。もっと正確に言えば、「積み重ねたい」という感じがより近いかもしれない。一時的ではなく、年月を経ても存在するイメージ。それと同じで、こんな風にただただ思いつくままに綴るだけの文章であっても、やっぱり流れていくよりは、積み重なっていって欲しいと思っている。何となく、小さな塚を作っているようでもあるなと、この文章を書きながら思った。