写真と言葉

秋の森で

北八ヶ岳の森に行ってきました。
標高2,000m以上の地点にある白駒の森。
ずっと行ってみたいと思っていた森に、ようやく入ることができました。

 ーーーーーーーーーー

私は森が好きです。心安らぎます。
すっとする森の香りは清々しくて気持ちが良いですし、
樹々の上を渡る風がサワサワと葉を揺らす音も心地よく響き、
その包み込まれるような優しさに身を委ねていたくなります。

けれど同時に、森には怖さもあります。
果てなどないかのように、奥へ奥へと深まっていく森は、
見つめているだけでも、距離感や方向感覚が失われていくような危うさがあります。
急にピタリと風がやみ、しんとした静寂が辺りを包むような時には、
自分自身の存在がとても心許ないものに感じられて、ゾクリとしたり。

そこにずっと佇んでいたいのに、
ふっと迫ってくる恐怖心。
美しい秋の彩りすら、ドキッとする怖さを湛えて見えたり。
こういう感覚を畏怖とか、畏敬というのかもしれません。

落ち着く場所であり、落ち着かない場所でもある。
それが、森です。

 

告白

誰かに「あなたを撮りたい」と伝えるのは、勇気がいります。怖さと期待が混じり合った緊張感は、好きな人に告白するときの感じにちょっと似ているかも。

私はこれまであまり人を撮ってことなかったので、尚更です。実は、自分が人を撮りたいと思っているということ自体に、私自身がまだ慣れていません。そんなことを思う日が来るなんて!我ながら、意外です。

人は、変わらないと思っていても変わっていくものであり、変わったと思う程には変わらないもの。と、常々思っているのですが、さて、どうなることやら…。

「森を抱く」それから。

「森を抱く」というタイトルの作品を展示したのが、昨年の春のこと。
その時、キャプションとして添えた文章がこちらです。

「森を抱く」

強い雨や焼けつくような日射しに豊かな葉を差し掛け、大地を肥やし、水を湛え、
優しくも厳しくもあろうとせず、生命を育み終末を受け入れる。

いつの頃からか、私は森に憧れ、森を求め、森になりたいとさえ思うようになった。
それは、30代半ばを過ぎた私自身の、“生命を内包する何か”への憧れでもあった。

同世代の友人の多くが母になっていく中、
私自身はどこか取り残されたような気持ちを感じるようになっていた。
同じ頃、病を患い闘病する友人も相次いだ。
当たり前だけれど、誰も自分の命を諦めたりなどしなかった。
一方、私は、自分自身が命に対して何の役割を担っているのかわからず、
そのことに後ろめたさを感じていた。

命を生むこと、育むこと、そして失われること。
豊かな森を望みながら、見知らぬ森を抱いて、私は今もここに生きている。

 

私にとって、この「森を抱く」という感覚は、今もずっと心にあります。昨年の展示で発表した作品は、完結したものではありませんでした。プロローグ的な位置付けの作品のつもりだったのですが、その後1年間、このテーマでの作品作りに取り組むことができずにいました。それは、何を撮っていくべきか迷いがあったからです。自分自身が抱く感情が“渦中の現実”すぎて、真正面から向き合うのをどこか避けていたのかもしれません。

でも、ようやく少し動き出せそうな気がしています。自分自身を含めた30代〜40代を生きる女性のこと、そして、“生命を内包する存在”としての森。まだまだ答えなんて出ないけれど、やはり撮ろうと思うのです。

渦中の存在としての自分の眼差しで、精一杯見つめてみたいと思います。

やってみます

ks180720

このサイトを最後に更新したのが2017年4月。このブログの更新に至っては、2016年10月以来更新がストップしていたという状況でしたが、また少しずつ活動していきたいと思います。

写真のことだけでなく、日々のことを気軽に書いてみたいです。最近、山に行くようになったので、そんな話題も含めて、思ったこと、考えたこと、感じたことを、文章にしてみたいと思います。

以前から、いつか文章を書くことをやってみたいという気持ちがあったのですが、落ち着いて取り組める時間ができたらやりたい…、なんて思っていました。でも、実は、その「いつか」なんて、待っていてもやってこないことも分かっていました。だから、ひとまず「やってみます」と言ってしまうことから始めることにします。

「やります」と即答するのが苦手なのですが、
「やってみます」とも言えない人生なんてちょっと面白くないな、と思ったので。

 

遠くへ

©Kumiko Sanae

季節が変わる
遠くへ

(続きを読む…)