写真と言葉

クレマチスの連想

8月の始め、お便りプロジェクトの2通目の手紙を書いた。

ポストカードにはクレマチスの写真を選び、手紙の話題は花火のことだった。いつも、カードの写真とそこに書く手紙の話題には直接の関連はないのだけれど、クレマチスと花火は、私にとってはまったく無関係という訳でもない。

クレマチスは、日本では「鉄線(テッセン)」とも呼ばれている。鉄のように強い蔓を伸ばすことから、その名前がついたらしい。花の時期が初夏なので、夏の着物や浴衣の柄としてよく使われる。私は、美しく咲く鉄線を見るたびに、浴衣をイメージして、夏の風情にときめきを覚えるのだ。

クレマチス → 鉄線 → 浴衣 → 花火

こんな連想で今回の手紙を書いた。

手紙を受け取った方も、クレマチスの花を見て何か思い起こしたりすることがあるだろうか、と思いを馳せながら。

カラープリント

涼しくなったら、久しぶりにカラー暗室に入るつもりだ。ここ暫く、暗室から遠ざかっていたけれど、もう一度、自分でプリントをしてみたいと思っている。

カラープリントを自分の手で行うようになったのは、私がナダールのスタッフになった2012年頃から。最初は、どのようなプリントに仕上げたいのかが自分でもわからず、色を見る力もなかった。プリントしている最中には思い通りにできたと思っていたのに、翌日もう一度見てみたら色が汚く感じられて、自分のプリントの下手さに落ち込むことも。それでも、自分の手で作り上げていく感覚は好きで、現像済みのネガが何本か溜まると、早くプリントしたくて暗室ができるタイミングを楽しみにしていたものだった。

それが、ここ2年ほどパタッとやめてしまって、プリントが必要な時はお店に任せていた。写真を自分と引き離した存在にしたくて、その為に他人にプリントしてもらうことが必要なのだという思いも少しはあったけれど、本当のことを言えば、プリントまで自分の手で仕上げたいという渇望がなくなっていた。理由はわからない。忙しかったせいかもしれないし、大変な思いをしてまでプリントしたい作品に取り組めていなかったということかもしれない。

暗室は思いのほか大変なのだ。やれる時に一気に作業するので、一度暗室に入ると長時間プリントし続けることになる。集中力を使うので、終わる頃にはヘロヘロ。金銭面だって馬鹿にならない。印画紙1箱買うのだって、諭吉さん1人では済まない。準備も、液を作るところから自分でする必要がある。とりわけ気が重いのが後片付けだった。プロセッサーから液を抜いて、何度か水を入れ替えながら循環させて洗う。ローラーなどもすべて取り外して流水で細かい部分までしっかり洗う。この後片付けの作業だけで1時間以上の時間がかかる。しっかり丁寧にやらないと大事なプロセッサーを傷めてしまいかねないので気が抜けない。

暗室で自分でプリントを作るのは、こんなにも手間暇かかることなのだけれど、そのこと自体に特別な価値があるわけではない。手焼きしたから偉いなんてことは全くない。ただ自分自身にとって「そうする理由」があるからする。それだけのこと。でも、何かを作ろうと思う人にとっては、その自分にだけ価値のある理由こそ、大事にするべきことなのかもしれない。だから、私は暗室に戻ってみようと思う。

久しぶりの暗室は、きっと苦労するだろう。

Be the change that you want to see in the world

最近、自分の年齢のことを考えることが多くなっている。と言っても、文字が読みづらくなったとか、ちょっとやそっと気をつけたくらいでは痩せられないとか、そういうことではない。(もちろん、そういうことも日々実感しているけれど…。)

年齢としては充分すぎるほど大人である自分が、やっとこさ「大人としてのこれからの自分のありよう」について、考えるようになったのだ。(遅すぎることは自覚している…。)

今までの自分の生き方は、自分のための行動の積み重ねだったように思う。誰かのために何かすることもあるけれど、その範囲は自分の家族や友人など、身近な誰かのために、というのが精一杯だった。けれど、40歳を目前にした今、もっと他者のために貢献する視点を持ちたいと思いはじめている。今を生きる一人の人間として、自分のやりたいことが、ほんの少しでも社会に貢献できることであれたらいいな、と。

そんなことを考えていて、ふと、20代の頃に知ったマハトマ・ガンジー氏の言葉を思い出した。

“Be the change that you want to see in the world”
あなたが見たいと思う世界の変化にあなた自身がなりなさい。

本当に、真理をついた言葉だと思う。
もう一度、しっかり胸に刻んでおきたい。

私が「お便りプロジェクト」を始めた理由

この春から「お便りプロジェクト」というものをスタートしている。私が自分の写真で作ったポストカードを使って手書きのお便りを出すというもので、約10名の方にお申し込みいただき、4月に第1回のお便りをお届けした。

なぜ「お便り」なのか。根底にあるのは、「写真を届けたい」という想い。展示をする、作品を販売する、写真集やzineを販売するなど、今までやってきたことの根底にもその想いはあったし、これからも続けていくつもりだけれど、ここ1〜2年、もっと違う方法もあるのではないかと考え続けていた。そもそも、人に写真を届けるって何だろうか、と。そこで思いついたのが「手紙を届けるように写真を届ける」ということだった。

私自身、子どもの頃はよく友達と手紙のやり取りをしていた。自分宛ての手紙を見つけた時の高揚感、開封する時のはやる気持ち。当時、ポストにはそういうワクワク感があった。今では、ポストに手紙が届いているかもしれない、などと想像することすら、ほとんどなくなってしまっている。

今でも、帰宅すると習慣的にポストを確認するけれど、入っているのはダイレクトメールやチラシ、請求書や自治体の広報誌ばかり。ポストを開けることに何の期待もトキメキも感じず、ただただ事務的に処理するだけのつまらない行為となってしまっている。何とも味気ない。

だったら、写真を郵送で送るのはどうだろうか。
例えば写真のポストカードなら、気軽に受け取ってもらえるかもしれない。
せっかくポストカードにするなら、お手紙も書きたい。
そうだ、手紙のように写真を届けてみよう。

この単純な思い付きが、わたしが「お便りプロジェクト」を始めた理由。

それに、私は一人暮らしなので余計にそう思うのかもしれないが、家に帰ってきた時に、ほんの少しでもワクワクした気分になれるようなことなら、それだけでやる意味があるんじゃないか、とも思っている。

また、意外に大事だと思っているのが、手紙が“受動的に受け取れるもの”であるということ。

思えば今の時代は、多くの物事が、自分が主体的に動くことで何かが得られる仕組みになっている。SNS、WEB、ブログなども含めて、読みたい人・情報を求めている側が自らアクションする必要がある。でも、正直に言えば私は、自分自身が疲労困憊している時などは、自ら何かをする気力も湧かないことも多い。

その点、手紙を受け取るというのはとても受動的な行為なのが良い。受け取り手の状況やコンディションと関係なく届けられる。それがかえって受け入れやすかったり、そういうものに救われたりすることもあるのではないだろうか。

写真を受動的に受け取ってもらう。それも「お便りプロジェクト」でやってみたいと思っていることの一つだ。

 

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衝動買い

久しぶりに、衝動買いらしい衝動買いをしてしまった。

買ったのは万年筆とインク。万年筆と言っても、決して高価なものではなく、ごくカジュアルなもの。ふらりと入ったステーショナリーショップで見つけて気に入り、そのまま購入してしまった。

万年筆を持つのは初めてではない。私の初めての万年筆は、高校か大学の入学祝いにと母に買ってもらったもの。私が欲しいとリクエストしたのだけれど、あまり使いこなせないままペン立てに入れっぱなしになっていた記憶がある。その後も何度か万年筆を使ってみようと思うことはあったものの、結局は、いつの間にか便利なボールペンばかり使うようになってしまう。その繰り返し。

何度も挫折しているのに懲りない奴だなぁと自分でも呆れるけれど、これはきっと憧れなのだと思う。文字を書くことへの。つまり、今、私は書きたい気持ちが高まっている。とにかく何かを書きたくて仕方がない。ところが、何を書くかが思いつかない。万年筆を片手にノートを開いては、しばし思案して閉じる。開いては、閉じる。しかし書きたいのだ。書けないのは欲求が満たされない。欲求不満がたまる。仕方なく、その辺にある紙の切れ端にどうでもいい落書きをしてお茶を濁す。まったく私ってやつは…。

でも、まぁ良い。欲求なんて、大抵そんなものだ。万年筆で文字を書くのは好きなのだから、とりあえず日常のメモなどに普通に万年筆を使えば良いのだ。そう、それに、お便りプロジェクトのお手紙にも万年筆を使いたいと思っていたし。

さて、長々と衝動買いのいい訳をしてみたが、これは全くもって自分自身に言い聞かせているだけな気がする。無駄な買い物ではなかったのだと。

いや、無駄でもいい。万年筆にインクを入れる時の幸せがあるだけで、私は充分満足なのだから。